2014年2月23日日曜日

観客の不能性

雪国 (新潮文庫 (か-1-1))
川端 康成
新潮社
売り上げランキング: 12,739


先週末、新潟の豪雪JAM に行く予定だったので、
せっかくだから現地で読もうと思い購入しました。

ところがその週の水曜日、
わたしの胃はキリキリと痛み出し、
金曜日に胃カメラを飲めば東京の空の如き荒れ模様。
ギリギリと歯噛みしいしい、泣く泣く断念することと相成りました。
※豪雪JAMは中止だったようです(さっき知りました)

その後、
胃の痛みが解けかかった矢先に身体が熱を出し、
またしても寝込むことになり、
我が身の不甲斐なさと床擦れを気にしつつ今に至ります。

とまぁ、
前口上はこのくらいにしておきまして、
「雪国」へと参りましょう。


筋としては、
雪国へやってきた男(島村※所帯持ち)が、
温泉町の芸者(駒子)といちゃいちゃしているけれど、
実は少女(葉子)を一番愛していた、というロリエロ話。
略してエロリ話です。
ラノベのおっさんバージョンみたいなものですね。

島村と駒子のいちゃいちゃぶりはそれはすごくって、
特に最初の方の駒子との再開の場面で、
島村が「こいつが一番君のことを覚えていたよ」とか言って、
左手の人差し指を駒子に突きつける件なんて、島村、ただのエロおやじです。
ハメ撮りのAV観てるのかと思いました。



…えーと、どうやら、
インテリゲンチャな雰囲気を醸し出すという、
このブログでのわたしの高尚な使命が早々とご帰宅され、
漲る熱いパトスが下世話な猥談を団体さんで連れて来ているようです。

これはいけません。
台無しもいいとこです。
非常に後ろ髪引かれますが、楽しいエロトークはここまでにして、
もう少し真面目な話をします。



はてさて。
この小説は最後まで読んでもよくわかりません。

話は途中でいきなり終わるし、
駒子と葉子の関係は結局何だったのかも明示されず、
ましてや物語的カタルシスなどはほぼない。
端的に言ってしまえば、面白くないのです。

しかしこれは、
話の筋だけ読んだ場合。

どういうことかというと、
この小説は「話を読む」ものではなく、
「文章を読む」ものであり、
本文を引用すれば「"この世ならぬ象徴の世界"の美しさを楽しむ」ものなのです。

つまり、
エピソードの連なりによって、
ある主題を物語るのではなく、
人物、風景、出来事etc、それぞれの瞬間の素描が、
作者の美学を物語っている小説だと言えます。

ですので、
話が面白くないという感想はまったくの見当違いで、
もし否定するのであれば、
「作者の文章表現が合わない」とするべきでしょう。

ということで、
わたしには作者の文章表現が合いませんでした。



お後がよろしいようでなので、
ここで終わりにしてもいいのですが、むしろ本番はこれから。

文章表現が合わないとは言っても、
「~た」で終わる文が続くことに、
どうにもわたしの読むリズムが合わないというだけで、
非常に洗練された文章であることは疑い得ません。

それよりもわたしが興味深いのは、
この小説の構成や構造に関してです。

上記のように「雪国」では、
"この世ならぬ象徴の世界"を描くことが主眼となっているため、
雪国が舞台であるというのが顕著ですけれど、
登場人物もまた、表現のための装置として配置されています。

主人公の島村。
親の遺産で無為徒食して暮らす、いわゆる高等遊民(うらやましい)。
東京に妻子がおり、西洋舞踊の紹介などを書いている人物です。

主人公とは言うものの、
その存在感は希薄で、温泉町における部外者という立ち位置です。

冒頭、
電車の中で窓ガラス越しに葉子を見つめている場面での、
「映画の二重写し」という表現から始まり、
映画館の火事で終わるという構成自体が、
島村の存在を暗喩的に語っています。

これはつまるところ、
島村は映画の観客のように、
物語へ関与できないということであり、
それはまた読者自身のことでもあります。

駒子との東京へ帰る帰らない問答の、
「いつまでいたって、君をどうしてあげることも、僕には出来ないんじゃないか。」
という台詞からもそれは窺え、
妻子持ちであるという設定は島村の不能性を担保するものとなります。

こうした島村の不能性=読者の不能性というモチーフは、
前に書いた江戸川乱歩にも通じるもので、
演技者と観客という関係の転倒を描いた江戸川乱歩に対し、
川端康成はそれを硬直した関係として描いています。


「雪国」で興味深いのは、
この不能性の関係が二種類存在するということです。

一方は葉子と島村の関係。

これは非常にイマジナリーなもので、
小説と読者との関係にあたります。

そのため葉子は、
作中において、象徴的な美として描かれています。

 もう一方は駒子と島村の関係。
こちらはリアルかつ身体的なもので、
演劇と観客との関係にあたり、現実的な美として描かれています。

島村が葉子へどうしようもなく惹かれてしまうのは、
「雪国」が小説という媒体である以上、当然だと言えるでしょう。


リアルまたはイマジナリーな関係における観客の不能性。

これをどう乗り越えていくかは、
わたしとしては非常に興味深くかつ実践的な課題です。

つまり、
ライブでの観客との関係と、
レコードでの聴者との関係をどう設定するかということです。

ライブに関しては、
寺山修司の都市演劇が参考になるかなぁと思っていますが、
レコードに関してはよくわかりません。

現状を見ると、
ARやプロジェクトマッピングなど、
ライブに関しては様々なことが試されているような気がしますが、
レコードに関してはあまりないように思いますので、
こちらのほうを考えると面白いかもしれません。


AV発言の反動で真面目すぎる話になってしまいましたが、
なにはともあれ人間健康が一番ですね。


※川端康成と江戸川乱歩の関係は「復興文化論」、
寺山修司については「情報社会の情念」に多大な影響を受けていますので、
そのうち書きたいなぁと思っています。


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