2014年4月24日木曜日

あいだに佇んでしまう人 ~ わびすけ 篠原篤一 ~



篠原くんがCDを出しました。
タイトルは『わびすけ』。
いまそれを聴きながらこの記事を書いています。

非常にめでたい。
非常にめでたいついでに、これ幸いと便乗レビューに勤しみます。


一曲目の『雪』にある
「ちべたい」という歌詞の語感からしてまず白眉なのですが、
それはひとまず置いておくとして、上の画像を見てみてください。

画像がなかったので、
紙ジャケを広げてスキャンしたものですが、
期せずしてこの画像が篠原くんの音楽を表しているのではないか、
という話をしようと思います。


どういうことか。


楽曲的なことを論ずるのは
わたしの手に余るゆえ歌詞から紐解きますと
一番顕著なのは五曲目『夕方』の歌詞の最後、
「思い出さないで忘れないで」の部分。

どっちやねん!
と思わずツッコミを入れてしまいそうになるところをぐっと堪らえてよくよく考えてみます。
っと、これは滋味です。

思い出さないで欲しい、
けれど、忘れないでもいて欲しい。

これはつまり、
矛盾する二つの状態のあいだで、
どっちつかずに居続けることを意味します。

背反する二つの間に留まる、
あるいは留まってしまうこと。

あいだに佇んでしまう、ということ。

それが篠原篤一の音楽であるように、わたしには感ぜられます。

これは岡本太郎の対極主義のように思われるかもしれませんが、
若干ニュアンスが異なります。

対極主義は能動的に矛盾を矛盾のまま表現しますが、
対してこちらは受動的であり、その気がないのに矛盾してしまう、
どう頑張ってみても"あいだ"に嵌り込んでしまうという、
"どうしようもなさ"が強く働いているように思われます。

また、
「佇む(たたずむ)」と「侘(わび)」は同じ漢字ですし、
「佇む」には「そのあたりをうろつく」という意味もあるので、
矛盾する二つの状態をうろついてしまうという意味において、
『わびすけ』というタイトルは言い得て妙だと言えるでしょう。


このように考えますと、
五曲目の『夕方』も"昼"と"夜"のあいだですし、
二曲目『おはかのうた』の「冬の暖かい日に信念折れ」という部分も
"冬=寒い"と"暖かい"のあいだの微妙な気温を表しています(※1)。

あるいは六曲目『川底』の
「川底まで 拾いに行って 掴んでは また沈める」というところ。

川底の言葉を沈んだままにしておけず、
とはいえ拾って持ち帰るでもなく、
拾って沈めるまでの束の間に焦点が当てられています。

歌詞だけではなく、
篠原くんの演奏中の佇まいもまた同様で、
篠原くんは歌う時に踵が上がって背伸びするように歌うのですが、
それが地べたと空中のあいだにふらふらと佇んでいるみたいで、
彼の奏でる音楽を体現しているように思われます。


事程左様に枚挙にいとまがないわけですけれど、
上の画像の表紙と裏表紙の"あいだ"にある背表紙。
そこのわずかな空間に書かれた「わびすけ 篠原篤一」の文字。

冒頭でも申し上げた通り、
ここに彼の音楽の本質的な部分である、
"あいだに佇んでしまうこと"が端無くも顕れているのだと感じます。


ちなみに、
下の画像は歌詞カードなのですが、
ワビスケの花があしらわれています(間違いだったらすみません)。



そうして、
ワビスケを調べてみたらこんなことが載っていました。

ワビスケの特徴
1.ワビスケの花は一般に小さく(極小輪~中輪)、一重・猪口咲きのものが多い(ラッパ咲きなどもある)。
2.雄しべが花粉を生じないのは「定義」に書いた通りだが、同時に雌しべも不稔かあるいはきわめて結実しにくい。
3.やや早咲きになる傾向がある。
4.子房に毛があるものがある(ないものもある)。
5.花にやや強い香りを持つものがある。
6.花色が紫を帯びた桃色になるものが多い。

なんだか、
特徴の1と2がぴったりすぎて驚きます。
特に2の「きわめて結実しにくい」という部分。
やばいです。


といった感じで、
音楽として普通に聴いてもいい曲揃いですし、
意識的か無意識的かはわかりませんけれど、
わたしの目から見ると非常に上手くパッケージングされたアルバムだとも言えます。

ただ、
出す時期が冬だったらもっと良かったなぁ、と、
ないものねだりしてしまうのは、わたしの身勝手というものです。



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※1
一番最初に『おはかのうた』を聴いた時、
「冬の暖かい日に死ね俺」と空耳して、なんてラディカル!と仰天。
そうして「信念折れ」が本当の歌詞だったことにちょっぴりがっかりしたことも良い思い出です。

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