長らく更新が滞っていました。
前回、視覚と聴覚みたいな話をしたので、
それに絡めて唯脳論を取り上げてみます。
25年前の1989年に上梓された本書。
随分前のものですが、
今でもその有効性は薄れていないように思われます。
取っ掛かりとして、
脳と心の関係の問題、心身論についての話が面白かったのでご紹介。
心がどこにあるのか。
心を意識と言い換えてもいいですが、
これは割とみなさん考えたことがあると思います。
なんとなく脳が作り出していそうですが、
脳をバラバラにしていったとしても、
どこかに「心」が含まれているわけではありません。
だとしたら、
「心」は一体どこにあるのか。
著者は、
これは問題の立て方が間違っており、
そもそも構造と機能の関係の問題だと言います。
本書と例えは違いますが、ハサミで考えてみます。
ハサミは物質的な構造を持っていて、
「切る」という機能があります。
しかし、
ハサミをどんなに分解したとしても、
「切る」は当然ながら出てきません。
脳と心も同様の関係で、
脳(構造)からは心(機能)は取り出せないのです。
これはつまり、
同じ「なにか」を違う見方で見たもので、
構造と機能をわざわざ分けて考えてしまうのは、
ヒトの脳の特徴のひとつだとしてここから脳の構造の話に入ります。
ややこしい話は抜きにして結論だけ言うと、
構造と機能のふたつの見方の分離は、
脳の視覚的要素と聴覚的要素の分離であり、
それを統一しようとした結果発生したのが「言語」だと著者は言います。
文字という時間を疎外した視覚的なものと、
声という時間を前提にした聴覚的なもの。
ふたつは全く別のものであるにも関わらず、
わたしたちは両方を「言語」と呼んでいます。
考えてみれば、
これは非常に奇妙なことで、
「粒子」と「波動」のふたつの性質を持った「光」と
なんだか似たような印象を受けます。
文字と声の話も面白いのですが、
これは後々別の本の時にでも語るとして、
わたしが気に掛かったのは、
本書では言語を構成できる感覚はみっつあり、
それは「視覚」「聴覚」「触覚」だとしている点です。
「視覚」「聴覚」については多く触れられているものの、
残りの「触覚」に関しての言及は点字くらいしかありません。
著者は最後にこう言っています。
脳化つまり情報化した現代社会は、
身体を統御し支配しているが、
脳はかならず自らの身体性によって裏切られる。
それが死だとして、
都会に残された最後の自然である人体に注意を促していますが、
先の語られなかった「触覚」による言語がここで気になります。
身体と触覚。
手触りによる言葉の追求というのは、
なかなかに興味深いテーマですし、
「皮膚-自我」という見方もあるようなので、
このあたりのことは色々と考えてみたいものです。
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