2014年4月25日金曜日

4月27日(日) 篠原篤一主催 若芽の会

明後日、日曜日にてかてはライブをします。

先日アルバムを出した篠原篤一くんの企画です。

そのレビューがご本人の好評を賜ったので、
わたしも大変やる気に満ち満ちております。

場所は市川にある古書店。
古書の匂いに包まれたならきっと、
目に映るすべてのものはメッセージです。

それでは、
若芽の会でお会いしましょう。

◆場所◆
市川 春花堂
http://ichikawa-chiba.mypl.net/shop/00000302116/
http://ichikawa-chiba.mypl.net/mp/interview_mama/?sid=3205

◆時間◆
16時30分スタート

◆入場料◆
100円(ドリンク付)

◆出演◆
山田真未
山田裕之
てかて
篠原篤一

2014年4月24日木曜日

あいだに佇んでしまう人 ~ わびすけ 篠原篤一 ~



篠原くんがCDを出しました。
タイトルは『わびすけ』。
いまそれを聴きながらこの記事を書いています。

非常にめでたい。
非常にめでたいついでに、これ幸いと便乗レビューに勤しみます。


一曲目の『雪』にある
「ちべたい」という歌詞の語感からしてまず白眉なのですが、
それはひとまず置いておくとして、上の画像を見てみてください。

画像がなかったので、
紙ジャケを広げてスキャンしたものですが、
期せずしてこの画像が篠原くんの音楽を表しているのではないか、
という話をしようと思います。


どういうことか。


楽曲的なことを論ずるのは
わたしの手に余るゆえ歌詞から紐解きますと
一番顕著なのは五曲目『夕方』の歌詞の最後、
「思い出さないで忘れないで」の部分。

どっちやねん!
と思わずツッコミを入れてしまいそうになるところをぐっと堪らえてよくよく考えてみます。
っと、これは滋味です。

思い出さないで欲しい、
けれど、忘れないでもいて欲しい。

これはつまり、
矛盾する二つの状態のあいだで、
どっちつかずに居続けることを意味します。

背反する二つの間に留まる、
あるいは留まってしまうこと。

あいだに佇んでしまう、ということ。

それが篠原篤一の音楽であるように、わたしには感ぜられます。

これは岡本太郎の対極主義のように思われるかもしれませんが、
若干ニュアンスが異なります。

対極主義は能動的に矛盾を矛盾のまま表現しますが、
対してこちらは受動的であり、その気がないのに矛盾してしまう、
どう頑張ってみても"あいだ"に嵌り込んでしまうという、
"どうしようもなさ"が強く働いているように思われます。

また、
「佇む(たたずむ)」と「侘(わび)」は同じ漢字ですし、
「佇む」には「そのあたりをうろつく」という意味もあるので、
矛盾する二つの状態をうろついてしまうという意味において、
『わびすけ』というタイトルは言い得て妙だと言えるでしょう。


このように考えますと、
五曲目の『夕方』も"昼"と"夜"のあいだですし、
二曲目『おはかのうた』の「冬の暖かい日に信念折れ」という部分も
"冬=寒い"と"暖かい"のあいだの微妙な気温を表しています(※1)。

あるいは六曲目『川底』の
「川底まで 拾いに行って 掴んでは また沈める」というところ。

川底の言葉を沈んだままにしておけず、
とはいえ拾って持ち帰るでもなく、
拾って沈めるまでの束の間に焦点が当てられています。

歌詞だけではなく、
篠原くんの演奏中の佇まいもまた同様で、
篠原くんは歌う時に踵が上がって背伸びするように歌うのですが、
それが地べたと空中のあいだにふらふらと佇んでいるみたいで、
彼の奏でる音楽を体現しているように思われます。


事程左様に枚挙にいとまがないわけですけれど、
上の画像の表紙と裏表紙の"あいだ"にある背表紙。
そこのわずかな空間に書かれた「わびすけ 篠原篤一」の文字。

冒頭でも申し上げた通り、
ここに彼の音楽の本質的な部分である、
"あいだに佇んでしまうこと"が端無くも顕れているのだと感じます。


ちなみに、
下の画像は歌詞カードなのですが、
ワビスケの花があしらわれています(間違いだったらすみません)。



そうして、
ワビスケを調べてみたらこんなことが載っていました。

ワビスケの特徴
1.ワビスケの花は一般に小さく(極小輪~中輪)、一重・猪口咲きのものが多い(ラッパ咲きなどもある)。
2.雄しべが花粉を生じないのは「定義」に書いた通りだが、同時に雌しべも不稔かあるいはきわめて結実しにくい。
3.やや早咲きになる傾向がある。
4.子房に毛があるものがある(ないものもある)。
5.花にやや強い香りを持つものがある。
6.花色が紫を帯びた桃色になるものが多い。

なんだか、
特徴の1と2がぴったりすぎて驚きます。
特に2の「きわめて結実しにくい」という部分。
やばいです。


といった感じで、
音楽として普通に聴いてもいい曲揃いですし、
意識的か無意識的かはわかりませんけれど、
わたしの目から見ると非常に上手くパッケージングされたアルバムだとも言えます。

ただ、
出す時期が冬だったらもっと良かったなぁ、と、
ないものねだりしてしまうのは、わたしの身勝手というものです。



自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間
岡本 太郎
青春出版社
売り上げランキング: 2,953



※1
一番最初に『おはかのうた』を聴いた時、
「冬の暖かい日に死ね俺」と空耳して、なんてラディカル!と仰天。
そうして「信念折れ」が本当の歌詞だったことにちょっぴりがっかりしたことも良い思い出です。

2014年4月16日水曜日

感傷地帯  ~幻想遊園地~


5年前だったか、
6年前だったか。

とにかく当時のわたしは、
廃墟や工場に若干の興味を持っていて、
廃墟を扱ったサイトをググったり、
友人と京浜工業地帯の工場を見にドライブ(助手席)したりと、
今思えば変にお熱を上げておりました。

そんなある日、
本屋の美術書コーナーに立ち寄った時のこと。

確か秋葉原の三省堂だったと思いますが、
なんだかノスタルジックな表紙が目に留まり、
わたしは中身も確認せずにレジへと向かいました。


帰宅後、
そそくさと開いた本には、
錆びついてささくれ立った鉄骨や、
繁茂する木々に目隠しされた遊具、
置きっぱなしになっているボウリングの玉。

傍観者のわたしにとって、
閉鎖された遊園地に浮かぶ人の痕跡は、
取り戻せない時間を感じさせてメランコリックな気分を掻き立てます。

そうしてページをめくっていくと、
あるところで手が止まりました。


「カッパピア」


須臾、
わたしはこの文字列が意味するものを理解できませんでした。

しかしながら、
たった二ページに圧縮されたそれは、
わたし自身の凍っていた記憶を瞬く間に解凍し、
わたしを当事者に変えてしまったのです。


群馬県高崎市にあったカッパピアは小学生の時分、
地元のレジャー施設として親しまれていました。

わたしも何度か行ったことがありますが、
「夏」に「プール」と言えば「カッパピア」だったように思います。

実家から少し離れていたこともあって、
カッパピアに行くというは子供心にはちょっとした旅行気分で、
前日は遠足前のようにそわそわと落ち着かず、夜寝付かれないくらいでした。

廃園となったカッパピア。
そこから立ち現れる人の痕跡は、
他の誰でもないわたし自身の幼い姿で、
「よみがえる、あの日の記憶。」という帯文の通り、
記憶の回転木馬が頭の中で動き始め、
過ぎ去った日々を上演してはわたしの感傷を誘い出します。

けれどこの時までは、
カッパピアという名前すら忘れていましたし、
まさかこんなところで再会するだなんて思わず、
あまつさえ二ページという扱いの低さも相まって、
かなり気が動転して「ふぁっ」やら「ひゅん」やら、
なんとも間の抜けた奇矯な声を高らかにあげつつ
落ち着くまでに暫時かかったわたしは夜寝付かれなくなるのでした。

2014年4月13日日曜日

私語(ささめき) ~細雪~

細雪 (上) (新潮文庫)
細雪 (上) (新潮文庫)
posted with amazlet at 14.04.10
谷崎 潤一郎
新潮社
売り上げランキング: 13,925


もうすでに春ですね。
ちょっと気取ってみようと思います。


昨日、
井の頭公園で花見をしました。

毎年恒例で、
5年くらい続いているのですが、
去年参加できなかったこともあり、
ノリで幹事を引き受けることになりました。

たまたま都合が合わなかったのか、
もしくはわたしの人徳のなせる業なのか、
今年は参加してくれた人が半数くらいでした。

そうして当日、
ひとりで場所取りをしている時、
ふと『細雪』を思い出したのです。


『細雪』は、
昭和十年代の関西(特に兵庫県芦屋市)が舞台で、
上流階級である蒔岡家の「鶴子」「幸子」「雪子」「妙子」の四姉妹の話。
雪子の結婚話と妙子の恋愛話を中心に、
主に幸子の視点から描かれています。

兵庫県芦屋市は
神谷メンバーの住居に近かったり、
作家の内田樹が住んでいたりするので、
場所的にもなかなか興味を惹かれますが、
今回は花見の話です。

幸子、雪子、妙子の三人は、
毎年京都へ花見に行くのが恒例行事となっていて、
それが三人の関係や状況の定点観測として機能しています。

最初の花見のシーンからすでに、
三人がバラバラになっていくのが示唆されていますが、
戦争へと傾いていく世の中の状況とも相まって、
年を重ねるごとにそれが顕著になってきます。

小説では、
5回花見の場面があり、
4回目で妙子がいなくなり、
5回目の後、雪子が東京へ嫁いでいくところで話は終わっています。

おそらくこの後、
三人が集まって花見をすることはないでしょうし、
生きて再び会うことができるのかもわかりません。


なぞと、
そんな取り留めもないことを考えていたら、
レジャーシートへぽつぽつと桜の花びらが落ちてきて、
ぐるりの喧騒を余所に、ひとり少しく切なくなったのでした。

2014年4月10日木曜日

自然な人体 ~唯脳論~

唯脳論 (ちくま学芸文庫)
養老 孟司
筑摩書房
売り上げランキング: 22,014

長らく更新が滞っていました。
前回、視覚と聴覚みたいな話をしたので、
それに絡めて唯脳論を取り上げてみます。

25年前の1989年に上梓された本書。
随分前のものですが、
今でもその有効性は薄れていないように思われます。

取っ掛かりとして、
脳と心の関係の問題、心身論についての話が面白かったのでご紹介。

心がどこにあるのか。
心を意識と言い換えてもいいですが、
これは割とみなさん考えたことがあると思います。

なんとなく脳が作り出していそうですが、
脳をバラバラにしていったとしても、
どこかに「心」が含まれているわけではありません。

だとしたら、
「心」は一体どこにあるのか。


著者は、
これは問題の立て方が間違っており、
そもそも構造と機能の関係の問題だと言います。

本書と例えは違いますが、ハサミで考えてみます。

ハサミは物質的な構造を持っていて、
「切る」という機能があります。

しかし、
ハサミをどんなに分解したとしても、
「切る」は当然ながら出てきません。

脳と心も同様の関係で、
脳(構造)からは心(機能)は取り出せないのです。

これはつまり、
同じ「なにか」を違う見方で見たもので、
構造と機能をわざわざ分けて考えてしまうのは、
ヒトの脳の特徴のひとつだとしてここから脳の構造の話に入ります。


ややこしい話は抜きにして結論だけ言うと、
構造と機能のふたつの見方の分離は、
脳の視覚的要素と聴覚的要素の分離であり、
それを統一しようとした結果発生したのが「言語」だと著者は言います。

文字という時間を疎外した視覚的なものと、
声という時間を前提にした聴覚的なもの。

ふたつは全く別のものであるにも関わらず、
わたしたちは両方を「言語」と呼んでいます。

考えてみれば、
これは非常に奇妙なことで、
「粒子」と「波動」のふたつの性質を持った「光」と
なんだか似たような印象を受けます。

文字と声の話も面白いのですが、
これは後々別の本の時にでも語るとして、
わたしが気に掛かったのは、
本書では言語を構成できる感覚はみっつあり、
それは「視覚」「聴覚」「触覚」だとしている点です。

「視覚」「聴覚」については多く触れられているものの、
残りの「触覚」に関しての言及は点字くらいしかありません。

著者は最後にこう言っています。
脳化つまり情報化した現代社会は、
身体を統御し支配しているが、
脳はかならず自らの身体性によって裏切られる。

それが死だとして、
都会に残された最後の自然である人体に注意を促していますが、
先の語られなかった「触覚」による言語がここで気になります。

身体と触覚。
手触りによる言葉の追求というのは、
なかなかに興味深いテーマですし、
「皮膚-自我」という見方もあるようなので、
このあたりのことは色々と考えてみたいものです。
QLOOKアクセス解析