2014年3月7日金曜日

「である」と「です・ます」

文章読本 (中公文庫)
文章読本 (中公文庫)
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三島 由紀夫
中央公論社
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日本といえば、フジヤマとゲイシャとハラキリ。
三島由紀夫といえば、マッチョとゲイとハラキリ。
そんな(どんな?)日本を代表する作家であるところの、
三島由紀夫が書いた文章を読むための本。

なぜか画像に「今月の新刊」とありますが20年近く前の本です。
地球の歴史から考えると20年くらいはまだまだ「今月」ということでしょうか。


さて、
この本は「読む側からの"文章読本"」を掲げ、
「普通読者(レクトゥール)」である人を
「精読者(リズール)」に導くことを目的として書かれているものです(うーん、よくわからん)。

文章を読むために文章を読む、というのは、
なんとも胡乱で永劫回帰感がしなくもないですが、
この本は日本語論としても読めるのでなかなかに興味深いです。


日本語にはフランス語やドイツ語のように、
名詞による男性・女性の分類はありませんが、
平安朝時代には漢字が男文字、仮名が女文字と呼ばれていました。

漢字は外(中国)から来たもので、
仮名は内(日本)から発生したものなので、
「源氏物語」や「枕草子」や「土佐日記」といった、
古典とされる物語や随筆がこの時期に仮名で書かれているということは、
日本文学の本流は女性的文学と言っても過言ではないかもしれません。

そういえば、
日本でエッセイやブログが多いのは、
こういった伝統から来ているからかもしれませんね。
(認知言語学的な側面も大いにあるでしょうが)

とはいえ、
男性的文学が駄目なわけではなく、
単に機能が異なっているというだけの話で、
俳句に代表される、極度に圧縮された簡潔な表現がこちらの本分なのでしょう。

著者はこの二つの代表的な作家として、
男性的文学では森鴎外を、
女性的文学では泉鏡花を例に出し説明しています。

このあたりのことは、
『言語にとって美とはなにか(吉本隆明著)』にある、
「文学体」「話体」の分類を併せて考えると面白そうです。


明治期の言文一致運動を経た今、
この二つの文学を文体でざっくり分けると、
「である」文と「です・ます」文に分類できると思います。

この本では「です・ます」文が使われていて、
著者曰く、小説以外では「僕」というのも使わないそうです(本書では「私」)。

わたしもこの文章を「です・ます」文で書いていますが、
有り体に言えば「である」文のほうが断然書きやすいです。

たしか批評家の東浩紀が言っていたと思うのですが、
「である」文だと聖闘士星矢的な必殺技感が出るそうです。

ほら、
「アナザーディメンション」って言われると、
なんだかよくわからないけどとにかくすごそうじゃありません?

そんな感じで文末を「である」にすると、
意味のよくわからない(わたしのような)下手な文章でも賢そうに見えますし、
断定することで説得力とやったった感が出るのである(ドヤ顔)。

一方、
「です・ます」文にすると、
ふにゃっとして曖昧な印象の文章になるので、
きちんとした筋道を立てて書かないとすごく読みづらい。

わたしが「です・ます」文で書いているのは、
そういったことの練習のためだと言えます。
(これも東浩紀が言ってましたけれど。
ちなみに彼の近著である『セカイからもっと近くに』は「です・ます」文です)

また、
一人称を「わたし」にしているのは、
紀貫之が「土佐日記」で女性のふりして書いていたみたいに、
身振りを真似ることで面白い発見がないかなぁと思ったからです。
こちらのほうが日記やエッセイに合ってそうですしおすし(合ってないかしらん…)。

女性のふりして文章を書くなんて、
さながらネカマのようですけれども、
ことによると彼らは現代の紀貫之なのかもしれませんわね。オホホホ。


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2014年3月5日水曜日

大衆は大衆が大嫌い

死と身体―コミュニケーションの磁場 (シリーズ ケアをひらく)
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内田樹が大好きです。
共著や対談も合わせたら70冊くらい読んでます。
自分でも引きますね。。。

たぶんあと10冊くらいで網羅できそうな勢いですが、
1年に5冊くらい出てるので(引きますね)、
作者とのイタチごっこに勤しんでおります。

こんなに読んでいる人は他にいなくて、
なんでかなぁと考えてみたのですが、
端的に読んでいて気持ちがいい。
文章のリズムの取り方と論理の運び方がめちゃくちゃ上手いんですね。

だから、
かなり専門的な用語が多用されているけれど、
身体をねじ込むように読んでいくうちにいつのまにか理解できてしまう。
なんだか自分がものすごく頭が良くなったような気になれる(錯覚ですが)。
そんな風に知的興奮をすごく味わえる作家です。
前回の自分の記事を読んで、
そのヘッポコさに悶絶グルーヴィーだったわたしとしては羨ましい限りです。


といったところで本の内容に入りますが、
一番気になったのは「ニーチェ主義的大衆社会」の部分。

ニーチェの超人思想というのは、
誤解を恐れず簡潔に言えば、
"自分よりも劣等なものを憎み、軽蔑することを自分自身の気高さの支えにする"ことで、
自分自身を高めていくというものです。

ニーチェがいた時代には、
こんなことを考えているのが彼しかいなかったので、
痛烈な文明批評になりえたのですけれど、
時代が下るにつれて「俺もニーチェの気持ちがわかる」という人が増えて、
みんながみんなを軽蔑するような「ニーチェ主義的大衆社会」になった。
と、著者は書いています。

これを読んでわたしの頭に真っ先に浮かんだのは「リーガル・ハイ2」でした。
内容をウィキペディアから引用するとこんな感じです。
"訴訟で一度も負けたことがない敏腕弁護士・古美門研介(こみかど けんすけ)と真面目で正義感の強い新米弁護士・黛真知子(まゆずみ まちこ)の2人が繰り広げるコメディタッチの弁護士ドラマ。"
古美門さんはとにかく大衆が嫌い。
特に最終回では大衆がいかに愚鈍であるかをのべつ語ります。

ドラマは大変好評だったようなのですが、
なんだか変じゃないですか。

最終的には「愚かな大衆を愛せ」
といった美辞麗句で締めくくられていましたが、
これは明らかに「馬鹿な視聴者が好きです」という
製作者側のメッセージが感じられます。

ドラマの中で語られる「大衆」とは、
云わば「視聴者」のことであるはずなのに、
「ふざけんな」とか「視聴者を馬鹿にしている」
といった文句も寡聞にして知りません(あるかもしれませんけれど)。

つまり、
このドラマを見ていた人は、
古美門と一緒に大衆を馬鹿にし溜飲を下げていて、
自分を「大衆」だと思っていないということなんだと思います。

「ニーチェ主義的大衆社会」ここに極まれり。

こんなこと書いているわたしも、
大衆を馬鹿にしていることに変わりはないのかもわかりません。

ですが、
自身が大衆の一員であること。
これは(自省も兼ねて)ゆめゆめ忘れてはいけませんし、
なによりガッキーの可愛さをゆめゆめ忘れてはいけないのです。


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